20代のころ、自分が若かったこともあり「手に入れたい」欲求は強かったように思います。
テクノロジーの進化を肌で感じていた当時、携帯電話を手に入れた時の嬉しい気持ちは今でも思い出せます。
個人でコンピュータを所有でき、使い方が分からなかったインターネットを便利に使えるようになり、携帯電話とインターネット閲覧を一つのデバイスで完結できるようになりました。
新しい物・事は好奇心や所有欲を刺激され、便利に使いたい。手に入れたい。と、前へ進む気持ちというか常に新しい物・事を求める気持ちが多かった。
物を所有することが豊かさの象徴であった時代に幼少期を過ごしたため、物にお金を払い満足感を得ることは”当たり前”のことで、逆にデータや情報は無料もしくは低価格で手に入ものという先入観があります。
物語を読むことに対する考え方が昔と変わりました。
以前は、好きな作者さんの既存の作品を集め、新しい作品が出れば買い…と、読んだことがないもの・新しいものを求めていました。呼んだことがある作品を何度も読み返すということをしていなかった。
今は新しい作品は夫に借りて時々読みますが、昔読んでいた本を読みなおすことが多くなりました。
コレクションのように、アレもコレも読んだ。と、読了の量に満足していた気もします。
自分好みの本と出合いたい気持ちもあるから知らない作品を読むことはありますが、人生の後半戦を「既に好きなことが分かっている本」を愛でる時間にあてるのも悪くないのではないか?と。
「新しい物・事を大量に発表する」ことって、そんなに良いことなの?という疑問を持つことがあります。
芸能人は多すぎるし生み出される作品も多い。選択肢が多いことは良い面もあるでしょうが競争が過剰になり収入を得ることができない人がいるのは悪い面だと思いますし、地下アイドルとか配信者ってファンと距離が近すぎて危なくない?って老婆心ながら心配してしまう。
「今の時代それは許されない」とは聞くことがあります。この「今の時代」部分の進化が早すぎて付いていけないことが怖いです。
それはポリティカル・コレクトネスが行き過ぎているのではないか?と感じることがあるから。
私は「原作のある作品は原作から大きく外さないで欲しい」派です。
2005年~2019年ころ、アメリカドラマが好きで視聴していた作品には、様々な人種、様々な背景を持つキャストが出るようになったと感じていました。
特定の人種のみで作られる作品は不自然なこともあり、より「リアル」であると良い感情を持っていました。
以前、久しぶりに刑事コロンボを観たとき、富豪の白人と召使の黒人の配役に対して「えっ?いいの?」と、違和感を覚えたことがあります。
刑事コロンボは1968年から放送された作品であり、公民権法が制定された1964年から4年しか経っていないころです。
就ける職業に限りがあったという時代背景を(おそらく)そのまま表現している作品に対して今の感覚では「その表現は良くない」と感じたのだと思います。
この、「当時の時代背景を忠実に再現する」ことは悪い事ではないという意識と、「それは良くない表現」と感じることに気持ちが追い付かないことがあるんです。
だからと言って「刑事コロンボ」を排除するのは間違っているとも思います。それはキャンセルカルチャーだよね?と。
エンターテイメントに対して正しいとか間違っているなどと考えてしまうことは、エンタメを純粋に楽しむことが出来なくなっているということのような気がします。
差別的な表現のある作品を観たいわけで無く、かといってポリコレ的に正しいからと時代背景を無視し過ぎていると違和感を覚えてしまう。この複雑さも新しい作品を求めなくなった原因の一つかな。
三谷幸喜氏脚本の時代劇を好きになれないような感覚。面白いのと好きかどうかは違うんですよね。といっても私はテレビを観なくなって久しいので最近の三谷作品がどうなのか知らないのですが。
元々保守的な考えを持っていたところ、加齢に伴い益々保守的傾向が強まっています。
新しいことが正しく古いことが悪という単純なことではなくて、正しい道も行き過ぎることはある。
もっと新しい物を、もっとたくさん所有したい、次は次は…
そんな考えだったけど、増やし続けるほど私の脳はスペック高くない。
記憶し続けること出来ないのだから、嫌なことは忘れて楽しい嬉しい記憶を保持したい。
物を減らし暮らしが楽になりました。片付けていると物理的に減らそうとデータで持つことを考える。でもデジタルだって増えれば管理できないからデジタルも片付け、
人間関係に執着することをやめた。嫌な言い方だけど人間関係を片付けた。
新しい物・事を入れることを制限するというのは情報過多の現代、脳の片付けではないかなと思うのです。
お読みいただきありがとうございました!
コメントを投稿
別ページに移動します